
『喜びも悲しみも幾歳月』は、『二十四の瞳』と共に、私よりも全国のオールドファンが木下と言えばこの二作を最初に口にし、代表作と決めてくれる。成る程、映画というものはそういうものか、と自分でもそんな気がしてくる。一般大衆との、心と心とのぶつかり合いが、実は映画の命なのであろう。

今度のロケは天気に恵まれたし人為的な意味でもツキすぎるくらいで、トントン拍子に進んだ。まるで各地を見物して歩いたみたいです。黒白の従来の概念から映画の表現出来る限度を知ってるだけに考えていなかったんだけど、今度カラーを撮ってみて天気に追いまくられると映画の美しさの新しいヒントを得ました。曇は曇、雨は雨なり、晴は晴と、それぞれ美しさというものをカラーだと思いっきり見せられるわけです。初めに行った志摩の近くでは観光やなんかで有名なのは大王崎燈台だから行こうと思っていたんだけど、これにはがっかりしちゃった。それで近くを探したら見つかったのが安乗燈台、だれもいかない燈台だけど日本に二つしかない四角い燈台の一つ(もう一つは長崎港を出たところにある燈台で、五島に向かう船から眺められる)で、あんな近くにあるとは思わなかった。人のいう名所なんてあてにならないという見本みたいだ。
瀬戸内海は燈台の多いことで有名だし、一つの燈台を見るのにも一日かかるからやっぱり懐かしい小豆島にいった。ボクも行きたかったし管轄の香川でも“また来てくれた”とこっちのいう通り船を出してくれた。結局一番近くにある男木島燈台へ行ったら、これもあとで広島で聞いたんだが瀬戸内海で一番いい燈台なのだそうだ。五島は“花咲く港”の時(木下監督のデビュー作、昭和十八年)にロケハンに来てるんで、今度のロケハン・ロケともう三度きたことになる。女島燈台は、ここから長崎へ行くぐらい船でかかるけど、きょうのロケで撮った(佐田、高峰の入江の道の出会い)海辺の道、石垣、入江で大体描き尽したのが福江島の魅力でしょう。ボクはロケが好きだし、ロケというものは風景を最高に美しく捉えなければ意味がないと思っている。(西日本燈台ロケ行脚を終えて)

彼らは灯台を守る。大金を得るためではない。漁師や船員たちが海にいるからだ。灯台の明かりを頼りに、必死になって港に戻ろうとしている船がいるからだ。
それを必要としている人たちがいる。だから自分がして、生活に必要な報酬を得る。これは働くということの基本ではなかったか。本来は勝ったり負けたりすることではなかったはずだ。
燈台守は大変な仕事だ。平野の真ん中に立った灯台などは一つもない。たとえ嵐の日でもその明かりを絶やすわけにはいかず、明かりが切れそうになったら荒れ狂う波を小船に乗って灯台に向かう。一般世間とは隔絶した厳しい環境の中で暮らし、仲間の家族の中には精神を病んでしまうものもあるし、子どもたちは転校ばかりで友達もできずに自然と無口になってしまう。たとえ愛する人が死を迎えようとしていても、引継ぎの時間が来るまでは自分の持ち場は絶対に離れない。
そんな自分の仕事に忠実な燈台守の佐田啓二と妻の高峰秀子の、結婚してから娘を嫁に出すまでの25年間を描いた木下惠介監督の代表作の一つ。
僕がこの作品で最も感動したのは、この夫婦がいつまでたっても仲がいいことだ。
夫は妻が愛しくて仕方がない。結婚して何年も経つのに、佐田啓二は数週間離れただけで高峰秀子のもとに走って会いに行く。いつでも二人は寄り添っているが、それも当然かもしれない。彼らの住むところは町から4里離れた北海道の雪の中だとか、草木の生えていない島だとか、浮気をしたくても美女どころか人そのものがいないのだ。
もちろん時には、飯がぬか臭いとか、娘の進学のことで意見が食い違ったり、喧嘩をしたりする。彼らの生きている環境は苛酷だし、愛する子どもを失う不幸にも襲われる。しかし、それでも愛は揺るがない。一人の人を一生かけて愛することができたのなら、これ以上の幸福はおそらくないだろう。
燈台守の後輩で長年の片思いを実らせた田村高廣と新妻の伊藤弘子に、高峰秀子が送るセリフ「私たちがした苦労を、あなたたちもすればいいのよ」。人生で出会う様々な困難に、夫婦で一緒に悩み、一緒に乗り越えていこう。素敵な祝福の言葉だ。
それに比べて僕たちはどうなのだろう。自分の能力を最大に発揮させることや、物欲ばかりを優先してはいないだろうか。自分のことばかりを考え、あまりにも簡単に永遠を誓った相手と別れてはいないだろうか。
昭和7年から32年までを描いているので、エピソードが数多くある。印象に残ったシーンを挙げてくださいと10人に頼んだら、きっと10のシーンが挙がるだろう。
僕が好きなのは、次のシーン。学校を出て灯台守になったばかりの少年が殴られて帰ってきた。佐田啓二は軽率に喧嘩などするなと少年を叱るが、その原因が、とある兵隊から、戦争行きたくないから灯台守になったんだろう、とからかわれたためだと知ると態度を一変させる。「今言ったことは取り消しだ」村人たちが宴会をしているところに勇んで出かけて行き、そこで兵隊を呼び出すと、兵隊の父親と名乗る男が「こんなめでたい日はない」とご機嫌な顔で出てきて、彼をお祝いに駆けつけたものと勘違いして上座に座らせる。みんなから酒を注がれた彼は断ることができないばかりか、酔いつぶれてしまい、結局リアカーに乗せられて帰ってくるというところ。佐田啓二の男気があるけれど格好悪いところが楽しいシーンであるが、笑いながらも観ているものは引っかかりを感じるのだ。
何故あそこで宴会が行われていたのだろうか。何がそんなにめでたいのだろうか。
きっとあそこにいた兵隊たちは出征するのだ。もしかしたら帰って来られなかったかもしれない。そう考えると、灯台守の少年をからかう気持ちも理解できないわけではない。
昔の映画を見ろ。僕の卒業した映画学校でこう教えられた。古いからいいのではない。時代を超えても人々を感動させる力を持っているから、淘汰されないのだ。人間として生きていくうえで一番基本的なもので、僕らがついつい忘れがちになってしまう大切なことをこの作品は思い出させてくれる。だからいつまでも残るし、また僕らが大切に守り、次の世代に伝えていかなければならない作品の一つである。

1924年北海道生まれ。29年松竹蒲田入社。高尾光子を継ぐ子役スタアとして『母』(29)等の話題作に次々出演するが、37年P・C・Lに転じる。『綴方教室』(38)から戦後の『或る夜の殿様』(46)の間に美しい大人の女性に成長。51年フリーになった早々、古巣松竹で日本初のフルカラー映画となった『カルメン故郷に帰る』(51)を撮り、以降木下惠介作品の常連に。本作の他、『カルメン純情す』(52)、『女の園』(54) 、『永遠の人』(61)等の名作に出演し、とりわけ『二十四の瞳』(54)では数々の映画賞を獲得、同じく数多く出演した成瀬巳喜男監督の『稲妻』(52)、『浮雲』(55)等とともに、押しも押されぬ大女優の地位を不動のものとした。

1926年京都府生まれ。46年松竹に入社後、47年木下惠介監督の『不死鳥』で大スター田中絹代の相手役でデビューする。48、49年のラジオドラマの映画化『鐘の鳴る丘』、49年『お嬢さん乾杯』、51年『自由学校』などで人気を得て、相次いで入社した高橋貞二、鶴田浩二らと「松竹の青春三羽烏」と呼ばれる。53〜54年の『君の名は』でその人気を不動のものとし、以降、『あなた買います』(56)、『集金旅行』(57)のほか、小津安二郎監督の『彼岸花』(58)、『お早よう』(59)、『秋日和』(60)、『秋刀魚の味』(62)に出演。俳優として円熟期に入ると期待された64年、交通事故により死去。享年38歳。俳優の中井貴恵、中井貴一は実子。

1912年静岡県生まれ。小学校3年の頃から映画館に頻繁に通うようになり、映画の道を志す。浜松工業学校、オリエンタル写真学校を経て、33年に松竹蒲田撮影所現像部に入る。最初は島津保次郎監督の撮影助手を務めていたが、36年に助監督部に移り、島津監督や吉村公三郎監督の助監督を務める。
43年『花咲く港』で監督デビュー。同年『姿三四郎』でデビューした黒澤明監督と共に、才能ある新人監督に贈られる山中貞雄賞を分け合う。翌年、『陸軍』公開。母親が出征する息子を延々と追いかけるラストシーンが軍国の母らしからぬ、と情報局から批判され、辞表を提出。浜松へ帰るが、所長に慰留される。
51年、国内初の長篇カラー映画『カルメン故郷に帰る』が公開。54年公開『二十四の瞳』では、ブルーリボン賞、米ゴールデングローブ賞ほか、国内外の映画賞を総ナメにした。また、回想シーンを白い楕円形のマスクで囲った『野菊の如き君なりき』(55)、日本縦断ロケを敢行した灯台守夫婦の年代記『喜びも悲しみも幾歳月』(57)、全篇セット撮影で歌舞伎の様式を用いた『楢山節考』(58)、米アカデミー賞外国語作品賞にノミネートされた『永遠の人』(61)など、常に新しい試みと斬新なアイデアで観る者を魅了し、完成度の高い傑作を次々と発表。海外でも高い評価を得ている。
64年『香華』を最後に松竹を退社。テレビ界に進出し、「木下惠介劇場」、「木下惠介アワー」、「木下惠介 人間の歌シリーズ」等で数多くのドラマを手掛けた。88年、49作目の『父』を発表。これが最後の映画作品となった。
77年、紫綬褒章、84年、勳四等旭日小綬章を受章。91年、国の文化功労者に選ばれる。98年12月30日逝去。享年86歳。


